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トンネル横丁の話(「忘れられた復興の風景」ライフさせぼ)

 1945年の終戦から1950年の朝鮮動乱が起こるまでの間、この時期はいわば焼け跡から現在の佐世保の市街を形成していく過程だといえる。1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)の新聞を見てみると、毎日のように都市計画が進められ、佐世保港の利用についての議論が繰り広げられている。

 当時はまだ戦争で焼けたままの箇所も多かった。市はそこを徐々に再建していく。その一方で人びとは今日寝る場所を、今日食べるものを確保しなければならない。防空壕や神社の境内、廃墟に住む方も少なくなく、食べ物もヤミの市場があり、酒も密造酒が市内で作られては、警察によって摘発されていた。

 この時期に話題になった場所として、最近よくテレビ番組で取材される戸尾のトンネル横丁がある。

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https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/61224/

 

この横丁が防空壕を利用していることは有名な話だが、昭和23年7月12日の新聞では当時そこをさらに補修するために岩を削っている様子が新聞で紹介されている。当時の街には引揚者が滞在し、生きるために、おでん等の食べ物屋台を始めるものがたくさんいた。街中に屋台が並んでいた。トンネル横丁はそうした戦後の食べ物文化の中で出来たといえる。

 復興の中で道路も拡張され、バスの路線も徐々に復活していった。当時は占領軍からもらいうけた大型のバスや、ガソリンではなく薪を燃料とする木炭バスも走っていた。さらに昭和24年には佐世保観光協会が街の復興の中で市街地の主要な通りに名前をつけるという企画を実施し、公募によって主要な通りの名前がつけられた。今は聞くことがないかもしれないが、湊町―山手町ガード下は「アメリカ通り」、トンネル横丁―清汐館(?)前は「教会通」と名づけられた。市と市民とが街の復興を作っていく様子を新聞から感じとることができる。

 佐世保港の段階的な復興も繰り返し紙面で取り上げられた。朝鮮動乱勃発直前には、自由港の指定を受ける可能性が報じられていた。つまり世界中の船が貿易のために佐世保に寄港するという可能性もあったのだ。

 しかし朝鮮動乱は勃発した。ふたたび基地の町となり、基地がもたらす特需のもとで、街は急激な発展を遂げていった。昭和23年や24年、新聞でたびたび取り上げられていた佐世保の未来のイメージは、佐世保が基地の町となることで忘れられていった。

 

 私たちは街に生きる。街も自分は日々変わっていく。そしていつの間にか、街も自分も自分たちが何に向かおうとしていたのか、忘れてしまう。歴史の中のある時のある風景を見るとき、そこに生きた人びとが持っていた未来のイメージを知ることは、私たちが忘れてしまった、しかし大切なイメージを思い出させてくれるものかもしれない。