ものはらこう

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鵜渡越と親鸞聖人  (ライフさせぼ 2015年1月を書き換え)

佐世保鎮守府が置かれたことで急激な発展を遂げた街だ。

鎮守府がおかれその街が発展し、人が集まるようになると、観光もまた重要視されるようになる。「鵜渡越」という地区がある。

現在、この地区に観光として訪れる人はそう多くはない。

しかしながらそれ故に、鵜渡越は戦前から戦後における佐世保の観光の歴史がそのままに活かされている場所だ。

 

特に私が好きなのは、野立所手前の砂岩だ。

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鵜渡越の砂岩

この道を歩いた人たちが、その記念に砂岩に文字を掘っていく。

「1929」とあるから、その時期に登った者が彫り込んだのだろう。

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鵜渡越の砂岩2

本当にたくさんの人が、この岩に文字を彫り、自分がここにいたことを記録している。こんなものは、観光地にはどこにでもあるといわれるかもしれない。確かにそうだ。

しかしながら、市街地からそう遠くない(まぁまぁ遠い)道の中でこの岩々と出会うとき、特に佐世保は戦後に一度作り直されたような街だということもあって、戦前からの連続性、戦前ここに来た誰か、を感じることができる。

 

そんな鵜渡越についての話だ。

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時事新聞や古い要覧などを読むと、戦前や戦後の復興期、鵜渡越は佐世保の有力な観光地の一つとして多くの人に楽しまれていた(戦中は防諜のため、観光は難しかったようだ)。

1956年の佐世保市の要覧の観光地紹介には、次のような記述がある。

「おいでなされよ駕籠から上げる 登り八丁苦にゃならぬ

駕籠どころか今は佐世保駅前を出た鵜渡越行の観光バスは、約30分で終点鵜渡越につく。九十九島の絶景を見るには好箇の地で春は桜、秋は紅葉で昔から四季を通じて遊客の絶える時がない。頂上には潜水艦殉職記念碑のほか、旅館や料亭、茶屋などがある。」

 

かつて人びとは御船町側から駕籠に乗って鵜渡越に登り、バスの経路が出来てからは観光バスに乗って登った。現在では、この観光道はほとんど利用されていないが、旅館や料亭とあるから、観光地として力を入れていたことがわかる。(※実際、鵜渡越展望台や近くの広場を歩くと、料亭の跡と見える基礎をみることができる。下のストリートビューでも庭石らしいものを確認できる)

 

この戦後もしばらく利用されていた観光道、御船町から鵜渡越に登る途中には、大きな親鸞聖人像がある。私がこの親鸞聖人像を知ったのは、「佐世保名勝 鵜渡越親鸞聖人銅像」と題された「佐世保鎮守府 検閲済」絵葉書だった。

この像の認知度は大変低い。私も佐世保の古い絵葉書を見ている中で知った、というレベル。そもそも駕籠に乗っていくようなところなので、現在車で行くことも難しく、あまり行く人がいないのだ。実はよく知っている山の中に、大きな像があるというのなら、やはり見てみたい。私は鵜渡越に向かった。

 

鵜渡越に着く。やはり坂道がきつい。終戦直後の鵜渡越の写真に比べて木々が生い茂っており、薄暗い。山登りだ。先述した巨石の転がる森の道を抜け、開けた場所に出ると、鵜渡越公園が見える。公園には数多くの桜が植樹されていた。公園は手前にとても手入れのされた広場があり、その奥に親鸞聖人像の頭が見えた。思いの外大きい。鵜渡越の木々の中、開けた広場に佇む像は、景勝地として絵葉書になるだけの存在感があった。以下、有志がGoogleストリートビューに風景をあげていただいているので、リンクを貼った。

goo.gl

 

像の背中に回ると、作者と制作の経緯が書かれている。どうやら私が絵葉書で見た銅像は大正時代に建立され、戦中の昭和19年に銅で出来ていたため供出されて、一度なくなってしまったようだ。そして、それを戦後に鈴山星集氏が同じ場所に、コンクリートを用いて建立しなおしたようである。

 

おそらくかつては御船町から坂道を登りながら、途中にある様々な仏像(道中、石仏が配置されている)、そしてこの親鸞聖人像に参り、景観を楽しみながら、頂上の嗚呼第四三潜水艦碑へと向かい、茶屋で休んだりしていたのだろう。先日訪れた際、石碑の前の広場には茶屋か旅館かの庭石が残っていた。

goo.gl

 戦後、道路や交通手段は劇的に変化し、観光地の在り方も変わっていった。その中で、おそらく鵜渡越へ、親鸞聖人像のもとへ行く人は減っていったのだろう。しかしながら、それ故に今も手入れの行き届いた公園に佇む親鸞聖人像は、戦前の鵜渡越観光の在り様を今に伝えている。

 

~~~以上がタウン誌での連載の概ねの内容

 

ちなみに戦後にコンクリートで二代目親鸞聖人像を建立した、鈴山星集氏は弓張に登る途中にある「子安観音」像も戦後に建立されている。(と取材を進める中で聞くことができた)

https://cha46.sagafan.jp/e751270.html

 

タウン誌での執筆以降読んで大変面白かった鵜渡越についての論文。

鵜渡越の開発をめぐっては、こちらに詳しく書かれている。

伊藤弘「佐世保における九十九島と内陸の結びつきの変遷」『日本建築学会計画系論文集』第77巻第682号、日本建築学会、2012年、 2763-2769頁

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/682/77_2763/_pdf