ものはらこう

このせかいのいろんなものはら

東京学生寮という戦後史(『ライフさせぼ』2015年2月)

学生寮という制度がある。代表的なものとして大学生向けの寮があり、大学毎に運営される寮もあれば、県人寮と呼ばれる県の育英会が主として運営する寮もある。そして、市の育英会が運営する寮もある。財団法人佐世保市育英会は2011年まで、佐世保市東京学生寮を運営していた。私も長いことお世話になった。代々木ゼミナールそば、新宿まで歩いて10分、原宿まで歩いて30分という最高の立地だった。現在は駐車場となっている。

 

この学生寮、特に東京の学生寮という制度は日本の近代化と深く関わっている。様々な県人寮の沿革などを見てみると、佐賀や鹿児島の寮など明治・大正時代に設立されたものと、佐世保市東京学生寮のように終戦後に設立されたものがある。明治・大正期、戦後復興期、共に日本社会が大きく変わり、新しい教育制度の立ち上がる時期だといえる。

 

東京の学生寮はこの二つの時期、地方から東京に上京しようとする学生の為に作られる。明治・大正期に作られた寮の多くは、当時大学が多かった文京区周辺に建てられていたようだが、戦後、大学の立地が拡散する中で移転する寮も多かったようだ。東京という都市に、出身地を同じくする人びとが集い生活する。そこにはどんな経験が、どんな文化があったのか。

 

昭和23年8月3日の佐世保時事新聞を見てみると、佐世保市学生寮実現の発端が描かれている。佐世保市役所の東京出張所実現に向けて動いていた城戸建設局長に、知人から荻窪2丁目142にある十年前に建てられたという建物が売りに出ているという連絡が入ったのだ。当時、陳情や商談など官公庁に限らず多くの佐世保の人間が東京へ出張しており、その費用も大きなものだった。市としては、東京と佐世保をつなぐ連絡機関としての機能に加え市民のための東京の宿泊所としても使えるよう出張所計画を進めていた。そして、8月10日の記事で正式に東京出張所がオープンしたことが伝えられている。記事では、中田市長が次のように述べている。「単に事務所とするばかりでなく(略)在京中の佐世保人や学生などにも利用させ、郷土とのつながりを作ることにも大いに意義があろう。ともかく中央との連絡機関として十二分に活用したい」。

この建物が1950年4月、東京出張所から佐世保市東京学生寮となる。荻窪と言えば杉並区だが、霞ヶ関に出るにはやや不便な地理。そこで東京出張所は都心の代々木に移し、空いた建物を寮としたのだ。荻窪寮の元寮生の方の話によると、当時のアパートの3分の1程度の家賃で住めていた。寮母さんが3名おり、食事も出ていた。食事は安い寮費からねん出しなければならないからか味気ないものも少なくなかった。(おそらく味噌汁の出汁をとるのに使った)「煮干しの天ぷら」が食卓に上り、それは口の中が痛いし、さすがにやめて欲しいと懇願したという話もあったそうだ。寮母さん達なりの節約術だったのかもしれない。

荻窪寮時代、東京の街は1964年に開催される「東京オリンピック」に向けた大規模な工事が各所でなされ、空気はひどく汚れていた。

東京オリンピックの開催年1964年、佐世保市は寮を市の直営ではなく法人運営とすべく財団法人佐世保市育英会を発足。先に代々木に移っていた佐世保市東京事務所と宿泊所を同じくする建物が建てられることとなった。これが2011年まで運営された佐世保市東京学生寮求義塾だ。

代々木寮は冒頭で述べたよう非常に恵まれた立地だった。寮生は新宿や渋谷といった副都心の発展とそこで生まれる文化をその区の境にある代々木から経験することが出来た。当の代々木は予備校生や専門学校生の街として発展し、商店街も発展していた。代々木寮の元寮生の方に話を聞くと、代々木の銭湯である奥の湯や雀荘、飲食店として「萬龍軒、「ソルタナ」や「ポパイ」の話が出る。70年代は寮祭などが企画され、周辺地域の方を寮に招いての交流などもあった。

そんな代々木寮も、入寮希望者の減少などの事情で、2011年に閉寮することになる。閉寮式を3月26日に予定する中、3月11日に東日本大震災が起こる。夜には元寮生という方が避難してきて寮長が対応、一夜を過ごすという事もあったそうだ。それから2週間後、多くのOBの方が集まる中、佐世保市東京学生寮は61年という歴史を閉じたのである。

東京学生寮の戦後史を振り返る時、荻窪や代々木の街も同様の戦後の一つのサイクルを生きてきていることに気づかされる。

代々木ゼミナールがそのメインビルを代々木駅前から南新宿駅近くに移したのが2008年。90年代より予備校生が徐々に減る中、代々木という街も次第に変わっていった。代々木商店街の個人経営の飲食店も次第に減り、昨年、寮生がよく利用していた「ソルタナ」というレストランが閉店。今回の記事のために代々木を訪れたところ、建物もなくなっていた(写真参照)。荻窪寮時代に多くの寮生がお世話になったという鳥料理店「鳥晴」も昨年に引退された。

これらは一つの世代のサイクルの問題でもあろう。戦後に作られた寮も商店街の個人店も、共に高度経済成長を生き、この時期に建物の老朽化や経営者の加齢が現実問題となる。そこでこれからのことを考えた時、そっと閉じていこうという選択肢が合理的なものとなる時代になったのだろう。

戦後に生まれた幾つかの制度が、それを支える建造物の老朽化や経営者の加齢に合わせて見直され、場合によってなくなっていく中、私が出来る事はその経過を歴史として書くことだった。

東京のある街に寮があり、そこに学生が集い生活していた。そこには東京の中に集い生きてきた人びとの社会があり、文化があった。それは戦後史には書かれることのない、若者の歴史だ。東京はこれから二度目の東京オリンピックに向うだろう。今も東京には多くの若者が集っている。学生寮はこれからも減っていくだろうか。東京の学生、若者の生活はどうなっていくのだろうか。戦後に培われた寮文化、学生文化の歴史は、想い出以上に今の学生、若者を考える為の足場となるはずだと考えている。

(もとの原稿から多少変更を加えています。)