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1950年の国勢調査(『ライフさせぼ』2014年10月)

10月1日は、5年に一度実施される国勢調査の調査日だ(今年は該当の年ではない)。

国勢調査は世界中の国で実施されている。

日本は明治時代より実施しようという動きがあり、明治35年国勢調査に関する法律」が公布され、その後日露戦争などで実施は先送りになりながらも、大正9年(1920)に第一回が実施されている。

日本で最初の実施ということもあり、相当な気合いが入っていたようだ。

 

国勢調査は戦後、どのように実施されたのか。

昭和22年(1947)に臨時調査があったが、本格的な調査としては昭和25年(1950)10月1日から3日間かけて実施された。これは世界の国勢調査との比較を想定した国際センサスに参加した第一回調査になっている。特筆すべきはこの調査から対象者の把握形式が変わったことだ。

現代の国勢調査では、普段住んでいる場所(常住地)に調査員が訪問し実施される。しかし1947年調査までは10月1日深夜0時より調査員が担当地区を回り、調査員が対象者と出会った場所で調査を行うという「現在地主義」という立場が採られていた。

当時の佐世保時事新聞には「汽車で旅行する者まで漏れなく捉えるため、鳴物入りの大騒ぎ」と表現されている。これは調査対象者を住んでいる家などの「常住地」で把握するのではなく、その担当地区で調査者がその地区で出会って把握するという手法だったため、その地区に旅行に来ていた者も調査対象者になり、実施される夜などは大事だったのだ。

しかしながら、全ての調査対象者が常住地にいるわけではなかった。この時期は戦後復興の最中、朝鮮動乱による特需の時期であり、市外から流入してきている者も多かった。家も足りておらず、防空壕や駅などに寝泊まりする者も多かった。その為一部の地区に関しては1日の深夜に現在地主義の飛び込み調査が行われた。

3日の佐世保時事新聞で紹介された記事「午前零時の国勢調査」によると、市の統計局は1日の調査前に夜店特検隊で浮浪者等の情報を収集し、0時より調査を開始。人々は寺の境内や山の中に寝泊まりしたり、廃墟や空き地に小屋を建てたりして、寝泊りをしていたようだ。記事によると300人近い人々が「定住地」でないかたちで国勢調査を受けている。

記事の最後、調査員たちは夜明け近くに、栄町の元映画館、彌生座の跡にたどり着く。3階の元映写室に寝泊まりする少年たちがいると聞いて調査に来たのだ。

「彼らはみんなレッキとした働き手なのである。靴磨き。鉄くず拾い。びん拾い。一人足りない。聞くと駅裏に干潮時をねらって鉄くず拾いにもうはだしで出かけているというのである。明け方の冷気がいよいよ体にしみるようだ。一人の子どもが、お父さんは戦時中矢岳町で空襲で死んだ。お母さんも一月前病気で死んでしまったと答えた。同じ境遇という一調査員はそれ以上聞こうとはしなかった」。

終戦から5年が経った秋の夜明けの出来事であった。

 

中村隆英2002「国勢調査の歴史」『歴史と地理―日本史の研究196』(552)