「物原」考
「物原」という言葉がある。
「物」の「原」だから、物原。
今、周りを見渡してみると、モノなんていくらでも目に入る。
PCというモノ、湯飲みというモノ。
テーブルも、椅子も、壁も……
私たちはモノに囲まれて生きている。
家の外に出たって、モノだらけ。
見渡してみればモノが目にとまる。
でも、そういう景色を「物原」と私たちは呼ばない。
物原という言葉を私たちはふだん使うことはない。
「物原」とは焼き物に関わる言葉だ。
焼き物の窯で出た失敗、窯の中で割れたり、崩れてしまったものを廃棄してできた「原」を「物原」と呼ぶ。
私は何度か窯跡をあるいたことがあるが、そこはなるほど「物原」だった。
土の隙間から白磁の欠片が、染付の文様がところどころに見える。
山の自然の中に、ほかでもない「モノ」が顔をのぞかせている。
その窯が操業されている当時はリアルタイムでそのモノ、いわば産業廃棄物が日々打ち捨てられ、堆積していった。
一面に打ち捨てられた人為的なモノの欠片、モノの原ができていく。
窯が閉じたのち、数百年の時を経ながら、少しずつ山の一部となっていく。
それでも、焼きモノ、人為的なモノは、簡単には土にはなり切れず、土の隙間から顔をのぞかせる。
そこに誰かが気づく時、かつての人為は発見される。
自然と人為のコントラストが、その風景を見たものに、その風景を「ものはら」と呼ばせるのだろう(あるいは操業当時から、そこは「物原」と呼ばれていたのだろうか)。
人為の積み重なり、失敗の堆積、「ものはら」。
計画されたものではない、むしろ計画の失敗で生まれたモノが打ち捨てられ、積み重なる中でできるマウンド、それが「ものはら」だ。
私は「物原」という言葉にみる「もの」というものに、
何か「もの」が人を惹きつけてやまない理由のようなものを感じる。