ものはらこう

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サマータイムとダンスホール(ライフさせぼ2014年6月号)

サマータイムダンスホール

 

6月になりだいぶ日が長くなってきた。ひと足早くビアガーデンをやっている人を街で見かける。季節の移り変わりと生活サイクルを連動?させる時間の使い方として、「サマータイム」という標準時を一時間進める制度がある。

現代の日本ではサマータイム制度は導入されていないが、かつて占領期の数年間、サマータイム(当時の新聞などには「サンマータイム」と書かれている)が実施されていた。

今月は、占領期におけるサマータイム制度導入時期の市民の余暇、特にダンスホールの利用を紹介したい。昭和23年(1948年)、4月より日本にもサマータイムが導入された。この時期は、ダンスホールが占領軍専用ではなく市民にも開放され、占領軍文化が市民に浸透しつつある時期だった。

昭和23年5月24日の佐世保時事新聞を観てみると、ダンスホールはだいたい午後八時に開き、十一時半頃に閉まっていた。ダンスホールの入場券は十五円、ダンサーと一緒に踊る為のチケット代が三十五円、合計五十円を支払ってホールに入る。ホールの真ん中が踊るための開けたスペースになっていて、周囲にテーブル、ボックス席があり、正面のステージでバンドが演奏する。

客が増えてくるのは映画の上映が一区切りする九時過ぎ。つまり、夕方から映画を観て、その後にダンスホールに向かうという人が一定数いたらしい。しかし、九時過ぎに客が入り始めても、営業時間11時半までとお尻は決まっている。ダンスホールにとってサマータイムは特に有難い話ではなかったようだ。

では、ダンスホールは営業を始める午後八時から十一時までの三時間しか営業していなかったのか。そうではなかった。昼間にダンス教授(ダンス教室)を行っていたのである。戦前にダンスを学んでいた者は戦後も踊れるだろう。しかし、「欧米のものならレコードさえ叩き割った時代に育った」当時の若者はダンスを学ぶ機会がこれまでなかった。踊りたいのなら、まずダンスを学ぶ必要があった。

記事には「親の脛かじる身と思える高校生」から「花恥ずかしい年ごろの乙女」まで平日の昼間から汗をかいてダンスのレッスンを受けているとある。レッスン料は月に四、五百円とあるから安い習いごとではなかったはずだ。

ダンスホールを開放することで日本人が踊る舞台が生まれ、サマータイムによってダンスを学ぶ時間が生まれた。そうしたなかで、ダンスホールの様子は変わっていった。

先述のとおり、ダンスホールは基本的にホールにいるダンサーと踊る場所だ。客はダンサーにチケットを渡して踊る。しかし、ダンスを学ぶ者が増えた結果、「アベック」つまりペアで踊りに来る者が増えたようだ。特に土日にはアベックがデートとしてダンスホールに来る。そうなると、ホールにいるダンサー達は暇になる。ダンサーが踊ることなく見て過ごすなんてこともあったようだ。

同年の11月にダンスホールは再び占領軍専用ホールとなったのだが、このホールの市民への開放を通して、ダンスを身につけた人は少なくなかったのではないだろうか。実際、資料を見てみると日本人向けのダンスホールは増えていた。この機会にダンスを学んで占領軍専用ホールのダンサーとなった人もいるのではないだろうか。サマータイムの導入、ダンスホールの解放、占領軍のもたらした文化は市民に受け入れられある種の大衆文化となっていった。

 

(元の記事をいくらか修正しています)