ものはらこう

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花見の名所から見る佐世保の戦後(ライフさせぼ2014年4月号)(ライフさせぼ2013年4月号)

佐世保の桜の話。

連載2回分をまとめました。

 

おおよそ一週間一気に咲いて散ってゆく桜、ソメイヨシノという桜が日本の春のイメージと結びつくようになったのは、そう昔のことではないらしい。詳しくは社会学者の佐藤俊樹氏が、『桜が創った「日本」』という本の中で論じているが、そもそも「ソメイヨシノ」という桜の名前自体、明治23年(1890年)につけられているそうだ。

ソメイヨシノは、その成長の早さや管理のしやすさから、戦前より様々な公共施設に植樹されるようになり、戦後復興の中でさらに日本中に植樹されるようになっていったらしい。

明治23年というと、佐世保鎮守府が開庁した翌年ということになる。佐世保の花見名所の歴史について調べてみる。現在の桜の名所といえば、おそらく中央公園や西海橋を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。だが、昔は違った。

以前祖母から聞いた話では、花見の名所として「山の田水源地」が人気だったという。

 

山の田水源地は、明治41年(1908年)に竣工されている。鎮守府開庁の18年後だ。その後、大正時代に作られた観光地図を見ると、確かに山の田水源地の周りには桜の絵が描かれており、花見の名所であったことがわかる。山の田水源地が完成した際、当時の流行、慣習となりつつあったソメイヨシノの植樹が行われ、しばらく後の大正時代には桜が育ち、春には一斉に咲くようになり、桜の名所となっていったのだろう。

それからおよそ百年後の現在、今も山の田水源地には多くの桜が咲いているようだ。が、花見の中心地ではなくなっている(少なくとも、私の世代的には)。これはアクセス手段の変化などもあるだろう。

山の田水源地は、鎮守府と深いかかわりを持っていた。山の田水源地は、鎮守府をおく軍港に必要な多量の淡水を供給する為に作られた施設として、当時の先進的な技術を用いて作られた、いわば佐世保の近代化を象徴する施設の一つだった。

当時の人びとは、軍港佐世保の発展を象徴する施設で、その施設の完成に際して植樹された桜を毎年見るようになっていたのだろう。それは当時全国的に増えつつあった、軍事施設へのソメイヨシノの植樹、それに伴い日本中で見られるようになっていった春の桜の風景であった。

現代の花見の名所はどうか。今の桜の名所といえば、中央公園と思う人が多いのではないだろうか。

 

中央公園がある場所は、戦中には空襲のひどい被害を受け、終戦直後には占領軍住宅だった。当時の写真を見ても、そもそも木々が目立たない。それが、占領軍住宅が無くなった後、公園として利用する中で桜を植樹し、今のような姿となっていったのである。 

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 「市街夜景」と新しい題がついたその写真には、遠くに佐世保港が、その手前に明かりで浮かび上がる繁華街、そして手前に米軍住宅が見えている。
私はこの写真をはじめてみた時、一瞥ではこれがどこからどこを撮影したものか、よくわからなかった。遠くに海が見え、手前に光があり、おそらく繁華街がある、と考える中で、中央公園だろうと推測した。

中央公園から旧プラネタリウムへ少し上ったところから、市立図書館のある宮地町方面と繁華街のある栄町方面を見下ろす。

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空襲の被害を受けた市街地を整地して占領軍住宅群は作られたが、もう今はない。昔はまだビルも少なく、ここから港がはっきり見えていた。そこから60年以上が経ち、ビルが増え、グラウンドや図書館などの公共施設が並び、港は見えなくなった。桜も植えられ大きくなり、今では花見の名所だ。

こうして60年以上前に写真を撮ったであろう場所を探しながら、当時どうしてここから写真を撮ったのだろうか、この場所の意味を考えていた。

昭和25年11月の文化の日に関する新聞記事には、当時の市民がこの場所にピクニックに来て、米軍住宅を話しのタネに秋の午後を過ごしたというような描写がある。

占領軍住宅の中でピクニックするというよりは、ちょうど写真を撮った場所より上の高台から見下ろしているのだろう。数年前、佐世保大空襲で焼けたこの場所は、占領軍によって整地され占領軍の住宅となった。

占領軍住宅は、最新の生活文化で構成されている。まだ復興の最中、住宅も足りていないところで、そこには当時の日本人のそれとは大きく異なる文化があった。風呂やトイレはもちろんのこと、家具なども日本のものとは異なる。そしてそれらは後に多くの日本人が用いるようになっていった生活文化だった。

市民たちはこの中央公園の高台から、そうしたこれから自分たちも手にしていくことになる異文化生活の風景を見ていた。

「流し」のタクシーの成立と街の発展(ライフさせぼ2013年2月号)

街で買い物をしていて急に雨が降り出した時、通りを流して走っているタクシーに向かって手を挙げることがある。「流し」のタクシーをつかまえるという行為。

しかし、地方のタクシーなどは、通りを「流す」のではなく、事務所の車庫で待機し、客からの電話を受けて配車することも少なくない。この「流し」というタクシーのあり方はある種の都市に特有なものらしい。

(利用客の多くが旅館の利用者である場合は、「流す」よりも旅館からの電話をまったり、旅館に待機するほうが合理的。)

 

佐世保の場合、この「流し」のタクシーは、朝鮮戦争勃発以降、特需と呼ばれる頃から見られるようになった。

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上の画像は、1955年の佐世保市の市制要覧に掲載された街の様子だ。夜の国際通りを走る車のヘッドライトの軌跡が際立つ。前のエントリーで書いたように、朝鮮動乱当時、街には輪タクが溢れていたが、次第にタクシーも急激していった。

昭和25年から27年にかけて旅客自動車(タクシー)の登録は25台→80台→172台と急増している。尚、輪タクの登録数も同じ時期に爆発的に増えているが、昭和28年になると減少をはじめている。おそらく、移動手段としての役割はタクシーへと移行していったのだろう。

輪タク同様、タクシーの主たる客は将兵達だった。特に、輪タクとは異なり長距離移動が可能なタクシーは、当時相浦にあったキャンプモア分遺隊の将兵たちに重宝された。タクシーは、相浦の分遺隊、平瀬の司令部、そして繁華街である国際通りという三つの場を繋ぐように走った。

 

客となる将兵達はとにかく多い。タクシーはこのいずれかの場所にいればすぐに将兵に呼び止められた。将兵が乗り込むと、運転手は「ピース、200円、ツゥーハンドレッド」と運賃を伝える。当時の交通手段としては極めて贅沢な値段だが、将兵達は金を持っており、運転手はチップをもらえることも少なくなかった。

 

当初、佐世保のタクシー業者の多くは、営業所にタクシーを待機させて、電話が来たら、そこに向かわせるという制度をとっていたのだが、街中に将兵がいるという状況が続くと、営業所の車庫で客の電話を待つよりも、将兵達のいる場を繋いで走るほうがずっと合理的だ。運転手達は事務所で待機することを避け、街の中、基地やキャンプの周辺を「流す」ようになった。

しかし、このような「流し」のタクシーの常態化は、タクシー会社にとっては予期せぬ課題をもたらした。それは営業所に電話をかけてくる客に対する対応だ。すべてのタクシーが将兵を乗せるべく「流し」を始めると、今度は営業所の車庫にタクシーがいなくなる。営業所は当番制にして一定のタクシーを車庫に待機させていたようだが、それでも複数の客から電話がかかってくると、車庫のタクシーが出払ってしまい対応が遅れてしまうのだ。

この電話客、将兵からの電話なのかというとそういうわけではなく、多くの電話は料亭からかかってきていたらしい。料亭の客は日本人の炭鉱関係者が多かったそうだ。

 

上記の内容は、2012年に第85回日本社会学会大会 において「基地・繁華街・交通網-戦後佐世保の文化社会学」という報告をもとに書いています)

輪タクの風景から読み解く戦後史(ライフさせぼ2013年1月号掲載)

 佐世保の歴史について誰かに伝えたいという時、どういう伝え方がありうるだろうか。様々な施設の誕生や条例の施行などの制度の発展から説明したり、ある重要人物に着目して説明したりするかもしれない。でもここでは、街に生きていた誰かが経験した歴史を伝えたいと思っている。

 中学生の頃、祖父と名切町を歩いていた。部活動で武道館に向かっていたのだと思う。祖父はふいに昔の街の様子を話した。「ここは空襲で全部焼けた」(さらに、ここには女郎屋があったとも言った。祖父は話好きでよくシンガポールにいた頃の話や工廠の話を聞かせてくれていたが、街の話はめったにしなかったのでひどく印象に残った)。名切には、武道館や交通公園、市民会館、プラネタリウムなど、公共教育施設がたくさんあり、子どもにとっては時々社会科見学?としてくる場所だった。祖父の語る名切と、私の知る名切。祖父が見てきた名切はどんな風景だったのだろうか。そこにどんな人生の一端があったのだろうか。

 これから描いていきたいのは、中学校の時に名切で感じたような、街に生きることのリアリティ、その歴史だ。そこで注目したいのは、当時の街の中を人はどのように移動し、何をしていたのか。そんな人々の描いてきた動線を今一度、なぞりかえしていきたい。

 今回、特に注目したいのは戦後復興から朝鮮動乱にかけての人びとの移動、特に動乱を機に溢れかえった「輪タク」という乗り物の描いた道だ。

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 戦前戦中と軍港として栄え、早くから自動車も走っていた佐世保だが、空襲、終戦を経て、多くの移動手段は燃料不足などで機能しなくなっていた。

 多くの市民は移動の為に歩いた。数少ない移動手段として自転車があったが、当然新品などない。自転車屋は、街の至る所にあった焼け跡の瓦礫から自転車に使えそうな部品を集め、組み立てた。タイヤが無ければゴムホースを代用し、チューブが無ければ藁を詰めて使った。それぞれの機転で焼け跡で拾った様々な素材から自転車を作っていたのである。

 まだ多くの市民が歩いていたのとは対照的に、連合軍の将兵たちは公式な移動の際には軍のトラックに乗っていた。個人での自由な移動の際には手段が限られており、そこで将兵相手に「貸自転車」や「輪タク屋」といったサービスが登場することになる。

 「貸自転車」は幾つかの自転車屋さんが提供していたサービスで、現在の教法寺の近くで行われていた。手軽に基地から佐世保の街を回るための手段として利用されていたのだろう。貸し出されていた自転車は焼け跡から組み上げられたもの。将兵たちはどんな気分で乗っていたのだろう。

 一方で「輪タク」も大いに流行った。輪タクは戦後の燃料不足の中、全国で登場した乗り物で、人力車の自転車版のようなものだ。多くの将兵は観光や慰安施設への移動の際に輪タクに乗り、戦後の街における象徴的な風景となっていた。

 特に、佐世保の街に輪タク屋が溢れる決定的な出来事は昭和25年6月、朝鮮戦争勃発とそれに伴う朝鮮動乱だった。佐世保市の統計を見てみると特殊自転車(リンタク)は昭和26年に46台だが、翌年には778台となっている。登録されていない車両を含むと相当数の輪タクが、朝鮮戦争勃発以降、佐世保の街に現れている。

 これは他の都市と比較しても特殊な状況だった。というのも、大都市では昭和25年前後から燃料付の移動手段が増えはじめ、輪タクは移動手段の中心ではなくなりつつあったからだ。昭和25年の朝日新聞には、「今は昔・輪タクの夢」といった記事も掲載されている。そんな中、朝鮮戦争によって将兵で溢れかえった佐世保輪タク屋にとって貴重な仕事の舞台となったのである。佐世保の外、熊本などから多くの輪タク屋が仕事の為に佐世保に来たようだ。

 朝鮮戦争によって前線基地となった佐世保には多くの将兵たちがやってくる。明日戦地に出なければならないかもしれない異国の若者達は慰安を求める。彼らは佐世保に着くと基地の周りで待っている輪タクをつかまえ、そして佐世保の市街地を眺めながら慰安施設に向かった。おそらくは輪タク屋自体が慰安施設の仲介のような役割も担っていたのだろう。そうして基地と慰安施設という二つの場所を輪タクが結ぶという関係が出来上がっていった。そして、この二つの場を結ぶ道上にある坂道にはいつの間にか輪タクを押すアルバイト要員が常駐するようになっていた。坂道の輪タク押しでもかなりの収入になっていたということだから、輪タク屋の収入は相当なものだっただろう。

 この基地と慰安施設を繋ぐ線に直接かかわることがなくとも、この線をめぐって生じる経済に、佐世保市民は巻き込まれていた。輪タク屋の数が増えているだけでも、下宿が埋まり、飲食店が賑わった。通りには輪タクが走り、街の至る所に将兵を待つ輪タク屋が集い、街の風景も変わっていった。

 一市民として生きる自転車屋には、将兵を乗せつづけた末に壊れた輪タクが昼夜問わず運び込まれた。輪タク一つで佐世保に乗り込んできている輪タク屋にとっては死活問題だ。夜中でもシャッターを叩いて修理を依頼した。自転車屋は普段のお客さんへの対応もできなくなってしまうほどに日々輪タク修理に追われていたそうだ。まさに「動乱」だった。

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 今回は、自転車と輪タクという乗り物、そして輪タクが結ぶ基地と慰安施設の道に注目しつつ、戦後から朝鮮動乱にかけての佐世保の街の風景の一端を描いてきた。ここで紹介したエピソードはおよそ10年間に経験された出来事だといえる。当時の佐世保に住み続けていた人たちの多くも同様な体験やその風景を見たことだろう。

 朝鮮動乱という出来事を考える時、経済効果や人の流入といった数字が目を引くが、私たちはまず、そこに生きた人たちの経験にこそ耳を傾ける必要がある。戦中戦後という時間の流れを生きてきた人々が経験した朝鮮戦争。そこに生きた人の感じた街の風景、思いを知る時、これまでとは違った佐世保という街の意味が見えてくる。

 「朝鮮動乱で儲かった人もたくさんいる。けれども、悲惨な目にあった人も数多くいる」。当時の街、そこに生きる人々の経験を知る時、その事実は深い意味を持ち始めるのだ。

 

※掲載当時の文章をちょっと変えています。

ちなみに、この話はさらに行政資料を調べて論文にしています。

「書きかわる慰安の動線. ―特需佐世保における「輪タク」と行政の相互作用を事例に―」『年報社会学論集』 (28), 2015(以下が電子版のリンクです)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2015/28/2015_124/_pdf