ものはらこう

このせかいのいろんなものはら

五島うどん、地獄炊き

学生寮に住んでいたころ、五島の有川出身の寮長に教えてもらった食べ方。

 

材料

五島うどん

(寮で食べさせてもらったのは、五島うどんの端っこの切れ端をまとめて安く売っている袋に入ったもの。五島うどんは手延べの乾麺なので)

鰹節

小口ネギ

たまご

醤油

 

作り方

五島うどんをたっぷりのお湯でがんがん茹でる。

茹でているあいだにお椀に、生卵をおとし、醤油、小口ネギ、鰹節を入れる。軽く混ぜておく。

うどんがゆであがったら、お椀のつけ汁につけて食べる。

徐々につけじるがうすくなっていくけど、五島うどん自体、結構塩けがあるので、そのままいける。

 

当時は寮生を集めて

アルミの蒸し器になる大きな鍋でうどんを茹で、

お椀が足りないときはマグカップをお椀代わりにして食べていた。

これ、冬場に外で食べてもきっとおいしかろうと思う。

「物原」考

「物原」という言葉がある。

「物」の「原」だから、物原。

 

今、周りを見渡してみると、モノなんていくらでも目に入る。

PCというモノ、湯飲みというモノ。

テーブルも、椅子も、壁も……

私たちはモノに囲まれて生きている。

 

家の外に出たって、モノだらけ。

見渡してみればモノが目にとまる。

 

でも、そういう景色を「物原」と私たちは呼ばない。

物原という言葉を私たちはふだん使うことはない。

 

「物原」とは焼き物に関わる言葉だ。

焼き物の窯で出た失敗、窯の中で割れたり、崩れてしまったものを廃棄してできた「原」を「物原」と呼ぶ。

 

私は何度か窯跡をあるいたことがあるが、そこはなるほど「物原」だった。

土の隙間から白磁の欠片が、染付の文様がところどころに見える。

 

山の自然の中に、ほかでもない「モノ」が顔をのぞかせている。

 

その窯が操業されている当時はリアルタイムでそのモノ、いわば産業廃棄物が日々打ち捨てられ、堆積していった。

一面に打ち捨てられた人為的なモノの欠片、モノの原ができていく。

窯が閉じたのち、数百年の時を経ながら、少しずつ山の一部となっていく。

それでも、焼きモノ、人為的なモノは、簡単には土にはなり切れず、土の隙間から顔をのぞかせる。

そこに誰かが気づく時、かつての人為は発見される。

 

自然と人為のコントラストが、その風景を見たものに、その風景を「ものはら」と呼ばせるのだろう(あるいは操業当時から、そこは「物原」と呼ばれていたのだろうか)。

人為の積み重なり、失敗の堆積、「ものはら」。

計画されたものではない、むしろ計画の失敗で生まれたモノが打ち捨てられ、積み重なる中でできるマウンド、それが「ものはら」だ。

 

私は「物原」という言葉にみる「もの」というものに、

何か「もの」が人を惹きつけてやまない理由のようなものを感じる。

トンネル横丁の話(「忘れられた復興の風景」ライフさせぼ)

 1945年の終戦から1950年の朝鮮動乱が起こるまでの間、この時期はいわば焼け跡から現在の佐世保の市街を形成していく過程だといえる。1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)の新聞を見てみると、毎日のように都市計画が進められ、佐世保港の利用についての議論が繰り広げられている。

 当時はまだ戦争で焼けたままの箇所も多かった。市はそこを徐々に再建していく。その一方で人びとは今日寝る場所を、今日食べるものを確保しなければならない。防空壕や神社の境内、廃墟に住む方も少なくなく、食べ物もヤミの市場があり、酒も密造酒が市内で作られては、警察によって摘発されていた。

 この時期に話題になった場所として、最近よくテレビ番組で取材される戸尾のトンネル横丁がある。

goo.gl

https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/61224/

 

この横丁が防空壕を利用していることは有名な話だが、昭和23年7月12日の新聞では当時そこをさらに補修するために岩を削っている様子が新聞で紹介されている。当時の街には引揚者が滞在し、生きるために、おでん等の食べ物屋台を始めるものがたくさんいた。街中に屋台が並んでいた。トンネル横丁はそうした戦後の食べ物文化の中で出来たといえる。

 復興の中で道路も拡張され、バスの路線も徐々に復活していった。当時は占領軍からもらいうけた大型のバスや、ガソリンではなく薪を燃料とする木炭バスも走っていた。さらに昭和24年には佐世保観光協会が街の復興の中で市街地の主要な通りに名前をつけるという企画を実施し、公募によって主要な通りの名前がつけられた。今は聞くことがないかもしれないが、湊町―山手町ガード下は「アメリカ通り」、トンネル横丁―清汐館(?)前は「教会通」と名づけられた。市と市民とが街の復興を作っていく様子を新聞から感じとることができる。

 佐世保港の段階的な復興も繰り返し紙面で取り上げられた。朝鮮動乱勃発直前には、自由港の指定を受ける可能性が報じられていた。つまり世界中の船が貿易のために佐世保に寄港するという可能性もあったのだ。

 しかし朝鮮動乱は勃発した。ふたたび基地の町となり、基地がもたらす特需のもとで、街は急激な発展を遂げていった。昭和23年や24年、新聞でたびたび取り上げられていた佐世保の未来のイメージは、佐世保が基地の町となることで忘れられていった。

 

 私たちは街に生きる。街も自分は日々変わっていく。そしていつの間にか、街も自分も自分たちが何に向かおうとしていたのか、忘れてしまう。歴史の中のある時のある風景を見るとき、そこに生きた人びとが持っていた未来のイメージを知ることは、私たちが忘れてしまった、しかし大切なイメージを思い出させてくれるものかもしれない。

鵜渡越と親鸞聖人  (ライフさせぼ 2015年1月を書き換え)

佐世保鎮守府が置かれたことで急激な発展を遂げた街だ。

鎮守府がおかれその街が発展し、人が集まるようになると、観光もまた重要視されるようになる。「鵜渡越」という地区がある。

現在、この地区に観光として訪れる人はそう多くはない。

しかしながらそれ故に、鵜渡越は戦前から戦後における佐世保の観光の歴史がそのままに活かされている場所だ。

 

特に私が好きなのは、野立所手前の砂岩だ。

f:id:dan_yasu:20200701102331j:plain

鵜渡越の砂岩

この道を歩いた人たちが、その記念に砂岩に文字を掘っていく。

「1929」とあるから、その時期に登った者が彫り込んだのだろう。

f:id:dan_yasu:20200701102516j:plain

鵜渡越の砂岩2

本当にたくさんの人が、この岩に文字を彫り、自分がここにいたことを記録している。こんなものは、観光地にはどこにでもあるといわれるかもしれない。確かにそうだ。

しかしながら、市街地からそう遠くない(まぁまぁ遠い)道の中でこの岩々と出会うとき、特に佐世保は戦後に一度作り直されたような街だということもあって、戦前からの連続性、戦前ここに来た誰か、を感じることができる。

 

そんな鵜渡越についての話だ。

~~~~~~~~~

時事新聞や古い要覧などを読むと、戦前や戦後の復興期、鵜渡越は佐世保の有力な観光地の一つとして多くの人に楽しまれていた(戦中は防諜のため、観光は難しかったようだ)。

1956年の佐世保市の要覧の観光地紹介には、次のような記述がある。

「おいでなされよ駕籠から上げる 登り八丁苦にゃならぬ

駕籠どころか今は佐世保駅前を出た鵜渡越行の観光バスは、約30分で終点鵜渡越につく。九十九島の絶景を見るには好箇の地で春は桜、秋は紅葉で昔から四季を通じて遊客の絶える時がない。頂上には潜水艦殉職記念碑のほか、旅館や料亭、茶屋などがある。」

 

かつて人びとは御船町側から駕籠に乗って鵜渡越に登り、バスの経路が出来てからは観光バスに乗って登った。現在では、この観光道はほとんど利用されていないが、旅館や料亭とあるから、観光地として力を入れていたことがわかる。(※実際、鵜渡越展望台や近くの広場を歩くと、料亭の跡と見える基礎をみることができる。下のストリートビューでも庭石らしいものを確認できる)

 

この戦後もしばらく利用されていた観光道、御船町から鵜渡越に登る途中には、大きな親鸞聖人像がある。私がこの親鸞聖人像を知ったのは、「佐世保名勝 鵜渡越親鸞聖人銅像」と題された「佐世保鎮守府 検閲済」絵葉書だった。

この像の認知度は大変低い。私も佐世保の古い絵葉書を見ている中で知った、というレベル。そもそも駕籠に乗っていくようなところなので、現在車で行くことも難しく、あまり行く人がいないのだ。実はよく知っている山の中に、大きな像があるというのなら、やはり見てみたい。私は鵜渡越に向かった。

 

鵜渡越に着く。やはり坂道がきつい。終戦直後の鵜渡越の写真に比べて木々が生い茂っており、薄暗い。山登りだ。先述した巨石の転がる森の道を抜け、開けた場所に出ると、鵜渡越公園が見える。公園には数多くの桜が植樹されていた。公園は手前にとても手入れのされた広場があり、その奥に親鸞聖人像の頭が見えた。思いの外大きい。鵜渡越の木々の中、開けた広場に佇む像は、景勝地として絵葉書になるだけの存在感があった。以下、有志がGoogleストリートビューに風景をあげていただいているので、リンクを貼った。

goo.gl

 

像の背中に回ると、作者と制作の経緯が書かれている。どうやら私が絵葉書で見た銅像は大正時代に建立され、戦中の昭和19年に銅で出来ていたため供出されて、一度なくなってしまったようだ。そして、それを戦後に鈴山星集氏が同じ場所に、コンクリートを用いて建立しなおしたようである。

 

おそらくかつては御船町から坂道を登りながら、途中にある様々な仏像(道中、石仏が配置されている)、そしてこの親鸞聖人像に参り、景観を楽しみながら、頂上の嗚呼第四三潜水艦碑へと向かい、茶屋で休んだりしていたのだろう。先日訪れた際、石碑の前の広場には茶屋か旅館かの庭石が残っていた。

goo.gl

 戦後、道路や交通手段は劇的に変化し、観光地の在り方も変わっていった。その中で、おそらく鵜渡越へ、親鸞聖人像のもとへ行く人は減っていったのだろう。しかしながら、それ故に今も手入れの行き届いた公園に佇む親鸞聖人像は、戦前の鵜渡越観光の在り様を今に伝えている。

 

~~~以上がタウン誌での連載の概ねの内容

 

ちなみに戦後にコンクリートで二代目親鸞聖人像を建立した、鈴山星集氏は弓張に登る途中にある「子安観音」像も戦後に建立されている。(と取材を進める中で聞くことができた)

https://cha46.sagafan.jp/e751270.html

 

タウン誌での執筆以降読んで大変面白かった鵜渡越についての論文。

鵜渡越の開発をめぐっては、こちらに詳しく書かれている。

伊藤弘「佐世保における九十九島と内陸の結びつきの変遷」『日本建築学会計画系論文集』第77巻第682号、日本建築学会、2012年、 2763-2769頁

https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/682/77_2763/_pdf

 

1950年の国勢調査(『ライフさせぼ』2014年10月)

10月1日は、5年に一度実施される国勢調査の調査日だ(今年は該当の年ではない)。

国勢調査は世界中の国で実施されている。

日本は明治時代より実施しようという動きがあり、明治35年国勢調査に関する法律」が公布され、その後日露戦争などで実施は先送りになりながらも、大正9年(1920)に第一回が実施されている。

日本で最初の実施ということもあり、相当な気合いが入っていたようだ。

 

国勢調査は戦後、どのように実施されたのか。

昭和22年(1947)に臨時調査があったが、本格的な調査としては昭和25年(1950)10月1日から3日間かけて実施された。これは世界の国勢調査との比較を想定した国際センサスに参加した第一回調査になっている。特筆すべきはこの調査から対象者の把握形式が変わったことだ。

現代の国勢調査では、普段住んでいる場所(常住地)に調査員が訪問し実施される。しかし1947年調査までは10月1日深夜0時より調査員が担当地区を回り、調査員が対象者と出会った場所で調査を行うという「現在地主義」という立場が採られていた。

当時の佐世保時事新聞には「汽車で旅行する者まで漏れなく捉えるため、鳴物入りの大騒ぎ」と表現されている。これは調査対象者を住んでいる家などの「常住地」で把握するのではなく、その担当地区で調査者がその地区で出会って把握するという手法だったため、その地区に旅行に来ていた者も調査対象者になり、実施される夜などは大事だったのだ。

しかしながら、全ての調査対象者が常住地にいるわけではなかった。この時期は戦後復興の最中、朝鮮動乱による特需の時期であり、市外から流入してきている者も多かった。家も足りておらず、防空壕や駅などに寝泊まりする者も多かった。その為一部の地区に関しては1日の深夜に現在地主義の飛び込み調査が行われた。

3日の佐世保時事新聞で紹介された記事「午前零時の国勢調査」によると、市の統計局は1日の調査前に夜店特検隊で浮浪者等の情報を収集し、0時より調査を開始。人々は寺の境内や山の中に寝泊まりしたり、廃墟や空き地に小屋を建てたりして、寝泊りをしていたようだ。記事によると300人近い人々が「定住地」でないかたちで国勢調査を受けている。

記事の最後、調査員たちは夜明け近くに、栄町の元映画館、彌生座の跡にたどり着く。3階の元映写室に寝泊まりする少年たちがいると聞いて調査に来たのだ。

「彼らはみんなレッキとした働き手なのである。靴磨き。鉄くず拾い。びん拾い。一人足りない。聞くと駅裏に干潮時をねらって鉄くず拾いにもうはだしで出かけているというのである。明け方の冷気がいよいよ体にしみるようだ。一人の子どもが、お父さんは戦時中矢岳町で空襲で死んだ。お母さんも一月前病気で死んでしまったと答えた。同じ境遇という一調査員はそれ以上聞こうとはしなかった」。

終戦から5年が経った秋の夜明けの出来事であった。

 

中村隆英2002「国勢調査の歴史」『歴史と地理―日本史の研究196』(552)

東京学生寮という戦後史(『ライフさせぼ』2015年2月)

学生寮という制度がある。代表的なものとして大学生向けの寮があり、大学毎に運営される寮もあれば、県人寮と呼ばれる県の育英会が主として運営する寮もある。そして、市の育英会が運営する寮もある。財団法人佐世保市育英会は2011年まで、佐世保市東京学生寮を運営していた。私も長いことお世話になった。代々木ゼミナールそば、新宿まで歩いて10分、原宿まで歩いて30分という最高の立地だった。現在は駐車場となっている。

 

この学生寮、特に東京の学生寮という制度は日本の近代化と深く関わっている。様々な県人寮の沿革などを見てみると、佐賀や鹿児島の寮など明治・大正時代に設立されたものと、佐世保市東京学生寮のように終戦後に設立されたものがある。明治・大正期、戦後復興期、共に日本社会が大きく変わり、新しい教育制度の立ち上がる時期だといえる。

 

東京の学生寮はこの二つの時期、地方から東京に上京しようとする学生の為に作られる。明治・大正期に作られた寮の多くは、当時大学が多かった文京区周辺に建てられていたようだが、戦後、大学の立地が拡散する中で移転する寮も多かったようだ。東京という都市に、出身地を同じくする人びとが集い生活する。そこにはどんな経験が、どんな文化があったのか。

 

昭和23年8月3日の佐世保時事新聞を見てみると、佐世保市学生寮実現の発端が描かれている。佐世保市役所の東京出張所実現に向けて動いていた城戸建設局長に、知人から荻窪2丁目142にある十年前に建てられたという建物が売りに出ているという連絡が入ったのだ。当時、陳情や商談など官公庁に限らず多くの佐世保の人間が東京へ出張しており、その費用も大きなものだった。市としては、東京と佐世保をつなぐ連絡機関としての機能に加え市民のための東京の宿泊所としても使えるよう出張所計画を進めていた。そして、8月10日の記事で正式に東京出張所がオープンしたことが伝えられている。記事では、中田市長が次のように述べている。「単に事務所とするばかりでなく(略)在京中の佐世保人や学生などにも利用させ、郷土とのつながりを作ることにも大いに意義があろう。ともかく中央との連絡機関として十二分に活用したい」。

この建物が1950年4月、東京出張所から佐世保市東京学生寮となる。荻窪と言えば杉並区だが、霞ヶ関に出るにはやや不便な地理。そこで東京出張所は都心の代々木に移し、空いた建物を寮としたのだ。荻窪寮の元寮生の方の話によると、当時のアパートの3分の1程度の家賃で住めていた。寮母さんが3名おり、食事も出ていた。食事は安い寮費からねん出しなければならないからか味気ないものも少なくなかった。(おそらく味噌汁の出汁をとるのに使った)「煮干しの天ぷら」が食卓に上り、それは口の中が痛いし、さすがにやめて欲しいと懇願したという話もあったそうだ。寮母さん達なりの節約術だったのかもしれない。

荻窪寮時代、東京の街は1964年に開催される「東京オリンピック」に向けた大規模な工事が各所でなされ、空気はひどく汚れていた。

東京オリンピックの開催年1964年、佐世保市は寮を市の直営ではなく法人運営とすべく財団法人佐世保市育英会を発足。先に代々木に移っていた佐世保市東京事務所と宿泊所を同じくする建物が建てられることとなった。これが2011年まで運営された佐世保市東京学生寮求義塾だ。

代々木寮は冒頭で述べたよう非常に恵まれた立地だった。寮生は新宿や渋谷といった副都心の発展とそこで生まれる文化をその区の境にある代々木から経験することが出来た。当の代々木は予備校生や専門学校生の街として発展し、商店街も発展していた。代々木寮の元寮生の方に話を聞くと、代々木の銭湯である奥の湯や雀荘、飲食店として「萬龍軒、「ソルタナ」や「ポパイ」の話が出る。70年代は寮祭などが企画され、周辺地域の方を寮に招いての交流などもあった。

そんな代々木寮も、入寮希望者の減少などの事情で、2011年に閉寮することになる。閉寮式を3月26日に予定する中、3月11日に東日本大震災が起こる。夜には元寮生という方が避難してきて寮長が対応、一夜を過ごすという事もあったそうだ。それから2週間後、多くのOBの方が集まる中、佐世保市東京学生寮は61年という歴史を閉じたのである。

東京学生寮の戦後史を振り返る時、荻窪や代々木の街も同様の戦後の一つのサイクルを生きてきていることに気づかされる。

代々木ゼミナールがそのメインビルを代々木駅前から南新宿駅近くに移したのが2008年。90年代より予備校生が徐々に減る中、代々木という街も次第に変わっていった。代々木商店街の個人経営の飲食店も次第に減り、昨年、寮生がよく利用していた「ソルタナ」というレストランが閉店。今回の記事のために代々木を訪れたところ、建物もなくなっていた(写真参照)。荻窪寮時代に多くの寮生がお世話になったという鳥料理店「鳥晴」も昨年に引退された。

これらは一つの世代のサイクルの問題でもあろう。戦後に作られた寮も商店街の個人店も、共に高度経済成長を生き、この時期に建物の老朽化や経営者の加齢が現実問題となる。そこでこれからのことを考えた時、そっと閉じていこうという選択肢が合理的なものとなる時代になったのだろう。

戦後に生まれた幾つかの制度が、それを支える建造物の老朽化や経営者の加齢に合わせて見直され、場合によってなくなっていく中、私が出来る事はその経過を歴史として書くことだった。

東京のある街に寮があり、そこに学生が集い生活していた。そこには東京の中に集い生きてきた人びとの社会があり、文化があった。それは戦後史には書かれることのない、若者の歴史だ。東京はこれから二度目の東京オリンピックに向うだろう。今も東京には多くの若者が集っている。学生寮はこれからも減っていくだろうか。東京の学生、若者の生活はどうなっていくのだろうか。戦後に培われた寮文化、学生文化の歴史は、想い出以上に今の学生、若者を考える為の足場となるはずだと考えている。

(もとの原稿から多少変更を加えています。)

 

サマータイムとダンスホール(ライフさせぼ2014年6月号)

サマータイムダンスホール

 

6月になりだいぶ日が長くなってきた。ひと足早くビアガーデンをやっている人を街で見かける。季節の移り変わりと生活サイクルを連動?させる時間の使い方として、「サマータイム」という標準時を一時間進める制度がある。

現代の日本ではサマータイム制度は導入されていないが、かつて占領期の数年間、サマータイム(当時の新聞などには「サンマータイム」と書かれている)が実施されていた。

今月は、占領期におけるサマータイム制度導入時期の市民の余暇、特にダンスホールの利用を紹介したい。昭和23年(1948年)、4月より日本にもサマータイムが導入された。この時期は、ダンスホールが占領軍専用ではなく市民にも開放され、占領軍文化が市民に浸透しつつある時期だった。

昭和23年5月24日の佐世保時事新聞を観てみると、ダンスホールはだいたい午後八時に開き、十一時半頃に閉まっていた。ダンスホールの入場券は十五円、ダンサーと一緒に踊る為のチケット代が三十五円、合計五十円を支払ってホールに入る。ホールの真ん中が踊るための開けたスペースになっていて、周囲にテーブル、ボックス席があり、正面のステージでバンドが演奏する。

客が増えてくるのは映画の上映が一区切りする九時過ぎ。つまり、夕方から映画を観て、その後にダンスホールに向かうという人が一定数いたらしい。しかし、九時過ぎに客が入り始めても、営業時間11時半までとお尻は決まっている。ダンスホールにとってサマータイムは特に有難い話ではなかったようだ。

では、ダンスホールは営業を始める午後八時から十一時までの三時間しか営業していなかったのか。そうではなかった。昼間にダンス教授(ダンス教室)を行っていたのである。戦前にダンスを学んでいた者は戦後も踊れるだろう。しかし、「欧米のものならレコードさえ叩き割った時代に育った」当時の若者はダンスを学ぶ機会がこれまでなかった。踊りたいのなら、まずダンスを学ぶ必要があった。

記事には「親の脛かじる身と思える高校生」から「花恥ずかしい年ごろの乙女」まで平日の昼間から汗をかいてダンスのレッスンを受けているとある。レッスン料は月に四、五百円とあるから安い習いごとではなかったはずだ。

ダンスホールを開放することで日本人が踊る舞台が生まれ、サマータイムによってダンスを学ぶ時間が生まれた。そうしたなかで、ダンスホールの様子は変わっていった。

先述のとおり、ダンスホールは基本的にホールにいるダンサーと踊る場所だ。客はダンサーにチケットを渡して踊る。しかし、ダンスを学ぶ者が増えた結果、「アベック」つまりペアで踊りに来る者が増えたようだ。特に土日にはアベックがデートとしてダンスホールに来る。そうなると、ホールにいるダンサー達は暇になる。ダンサーが踊ることなく見て過ごすなんてこともあったようだ。

同年の11月にダンスホールは再び占領軍専用ホールとなったのだが、このホールの市民への開放を通して、ダンスを身につけた人は少なくなかったのではないだろうか。実際、資料を見てみると日本人向けのダンスホールは増えていた。この機会にダンスを学んで占領軍専用ホールのダンサーとなった人もいるのではないだろうか。サマータイムの導入、ダンスホールの解放、占領軍のもたらした文化は市民に受け入れられある種の大衆文化となっていった。

 

(元の記事をいくらか修正しています)