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「流し」のタクシーの成立と街の発展(ライフさせぼ2013年2月号)

街で買い物をしていて急に雨が降り出した時、通りを流して走っているタクシーに向かって手を挙げることがある。「流し」のタクシーをつかまえるという行為。

しかし、地方のタクシーなどは、通りを「流す」のではなく、事務所の車庫で待機し、客からの電話を受けて配車することも少なくない。この「流し」というタクシーのあり方はある種の都市に特有なものらしい。

(利用客の多くが旅館の利用者である場合は、「流す」よりも旅館からの電話をまったり、旅館に待機するほうが合理的。)

 

佐世保の場合、この「流し」のタクシーは、朝鮮戦争勃発以降、特需と呼ばれる頃から見られるようになった。

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上の画像は、1955年の佐世保市の市制要覧に掲載された街の様子だ。夜の国際通りを走る車のヘッドライトの軌跡が際立つ。前のエントリーで書いたように、朝鮮動乱当時、街には輪タクが溢れていたが、次第にタクシーも急激していった。

昭和25年から27年にかけて旅客自動車(タクシー)の登録は25台→80台→172台と急増している。尚、輪タクの登録数も同じ時期に爆発的に増えているが、昭和28年になると減少をはじめている。おそらく、移動手段としての役割はタクシーへと移行していったのだろう。

輪タク同様、タクシーの主たる客は将兵達だった。特に、輪タクとは異なり長距離移動が可能なタクシーは、当時相浦にあったキャンプモア分遺隊の将兵たちに重宝された。タクシーは、相浦の分遺隊、平瀬の司令部、そして繁華街である国際通りという三つの場を繋ぐように走った。

 

客となる将兵達はとにかく多い。タクシーはこのいずれかの場所にいればすぐに将兵に呼び止められた。将兵が乗り込むと、運転手は「ピース、200円、ツゥーハンドレッド」と運賃を伝える。当時の交通手段としては極めて贅沢な値段だが、将兵達は金を持っており、運転手はチップをもらえることも少なくなかった。

 

当初、佐世保のタクシー業者の多くは、営業所にタクシーを待機させて、電話が来たら、そこに向かわせるという制度をとっていたのだが、街中に将兵がいるという状況が続くと、営業所の車庫で客の電話を待つよりも、将兵達のいる場を繋いで走るほうがずっと合理的だ。運転手達は事務所で待機することを避け、街の中、基地やキャンプの周辺を「流す」ようになった。

しかし、このような「流し」のタクシーの常態化は、タクシー会社にとっては予期せぬ課題をもたらした。それは営業所に電話をかけてくる客に対する対応だ。すべてのタクシーが将兵を乗せるべく「流し」を始めると、今度は営業所の車庫にタクシーがいなくなる。営業所は当番制にして一定のタクシーを車庫に待機させていたようだが、それでも複数の客から電話がかかってくると、車庫のタクシーが出払ってしまい対応が遅れてしまうのだ。

この電話客、将兵からの電話なのかというとそういうわけではなく、多くの電話は料亭からかかってきていたらしい。料亭の客は日本人の炭鉱関係者が多かったそうだ。

 

上記の内容は、2012年に第85回日本社会学会大会 において「基地・繁華街・交通網-戦後佐世保の文化社会学」という報告をもとに書いています)