ものはらこう

このせかいのいろんなものはら

輪タクの風景から読み解く戦後史(ライフさせぼ2013年1月号掲載)

 佐世保の歴史について誰かに伝えたいという時、どういう伝え方がありうるだろうか。様々な施設の誕生や条例の施行などの制度の発展から説明したり、ある重要人物に着目して説明したりするかもしれない。でもここでは、街に生きていた誰かが経験した歴史を伝えたいと思っている。

 中学生の頃、祖父と名切町を歩いていた。部活動で武道館に向かっていたのだと思う。祖父はふいに昔の街の様子を話した。「ここは空襲で全部焼けた」(さらに、ここには女郎屋があったとも言った。祖父は話好きでよくシンガポールにいた頃の話や工廠の話を聞かせてくれていたが、街の話はめったにしなかったのでひどく印象に残った)。名切には、武道館や交通公園、市民会館、プラネタリウムなど、公共教育施設がたくさんあり、子どもにとっては時々社会科見学?としてくる場所だった。祖父の語る名切と、私の知る名切。祖父が見てきた名切はどんな風景だったのだろうか。そこにどんな人生の一端があったのだろうか。

 これから描いていきたいのは、中学校の時に名切で感じたような、街に生きることのリアリティ、その歴史だ。そこで注目したいのは、当時の街の中を人はどのように移動し、何をしていたのか。そんな人々の描いてきた動線を今一度、なぞりかえしていきたい。

 今回、特に注目したいのは戦後復興から朝鮮動乱にかけての人びとの移動、特に動乱を機に溢れかえった「輪タク」という乗り物の描いた道だ。

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 戦前戦中と軍港として栄え、早くから自動車も走っていた佐世保だが、空襲、終戦を経て、多くの移動手段は燃料不足などで機能しなくなっていた。

 多くの市民は移動の為に歩いた。数少ない移動手段として自転車があったが、当然新品などない。自転車屋は、街の至る所にあった焼け跡の瓦礫から自転車に使えそうな部品を集め、組み立てた。タイヤが無ければゴムホースを代用し、チューブが無ければ藁を詰めて使った。それぞれの機転で焼け跡で拾った様々な素材から自転車を作っていたのである。

 まだ多くの市民が歩いていたのとは対照的に、連合軍の将兵たちは公式な移動の際には軍のトラックに乗っていた。個人での自由な移動の際には手段が限られており、そこで将兵相手に「貸自転車」や「輪タク屋」といったサービスが登場することになる。

 「貸自転車」は幾つかの自転車屋さんが提供していたサービスで、現在の教法寺の近くで行われていた。手軽に基地から佐世保の街を回るための手段として利用されていたのだろう。貸し出されていた自転車は焼け跡から組み上げられたもの。将兵たちはどんな気分で乗っていたのだろう。

 一方で「輪タク」も大いに流行った。輪タクは戦後の燃料不足の中、全国で登場した乗り物で、人力車の自転車版のようなものだ。多くの将兵は観光や慰安施設への移動の際に輪タクに乗り、戦後の街における象徴的な風景となっていた。

 特に、佐世保の街に輪タク屋が溢れる決定的な出来事は昭和25年6月、朝鮮戦争勃発とそれに伴う朝鮮動乱だった。佐世保市の統計を見てみると特殊自転車(リンタク)は昭和26年に46台だが、翌年には778台となっている。登録されていない車両を含むと相当数の輪タクが、朝鮮戦争勃発以降、佐世保の街に現れている。

 これは他の都市と比較しても特殊な状況だった。というのも、大都市では昭和25年前後から燃料付の移動手段が増えはじめ、輪タクは移動手段の中心ではなくなりつつあったからだ。昭和25年の朝日新聞には、「今は昔・輪タクの夢」といった記事も掲載されている。そんな中、朝鮮戦争によって将兵で溢れかえった佐世保輪タク屋にとって貴重な仕事の舞台となったのである。佐世保の外、熊本などから多くの輪タク屋が仕事の為に佐世保に来たようだ。

 朝鮮戦争によって前線基地となった佐世保には多くの将兵たちがやってくる。明日戦地に出なければならないかもしれない異国の若者達は慰安を求める。彼らは佐世保に着くと基地の周りで待っている輪タクをつかまえ、そして佐世保の市街地を眺めながら慰安施設に向かった。おそらくは輪タク屋自体が慰安施設の仲介のような役割も担っていたのだろう。そうして基地と慰安施設という二つの場所を輪タクが結ぶという関係が出来上がっていった。そして、この二つの場を結ぶ道上にある坂道にはいつの間にか輪タクを押すアルバイト要員が常駐するようになっていた。坂道の輪タク押しでもかなりの収入になっていたということだから、輪タク屋の収入は相当なものだっただろう。

 この基地と慰安施設を繋ぐ線に直接かかわることがなくとも、この線をめぐって生じる経済に、佐世保市民は巻き込まれていた。輪タク屋の数が増えているだけでも、下宿が埋まり、飲食店が賑わった。通りには輪タクが走り、街の至る所に将兵を待つ輪タク屋が集い、街の風景も変わっていった。

 一市民として生きる自転車屋には、将兵を乗せつづけた末に壊れた輪タクが昼夜問わず運び込まれた。輪タク一つで佐世保に乗り込んできている輪タク屋にとっては死活問題だ。夜中でもシャッターを叩いて修理を依頼した。自転車屋は普段のお客さんへの対応もできなくなってしまうほどに日々輪タク修理に追われていたそうだ。まさに「動乱」だった。

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 今回は、自転車と輪タクという乗り物、そして輪タクが結ぶ基地と慰安施設の道に注目しつつ、戦後から朝鮮動乱にかけての佐世保の街の風景の一端を描いてきた。ここで紹介したエピソードはおよそ10年間に経験された出来事だといえる。当時の佐世保に住み続けていた人たちの多くも同様な体験やその風景を見たことだろう。

 朝鮮動乱という出来事を考える時、経済効果や人の流入といった数字が目を引くが、私たちはまず、そこに生きた人たちの経験にこそ耳を傾ける必要がある。戦中戦後という時間の流れを生きてきた人々が経験した朝鮮戦争。そこに生きた人の感じた街の風景、思いを知る時、これまでとは違った佐世保という街の意味が見えてくる。

 「朝鮮動乱で儲かった人もたくさんいる。けれども、悲惨な目にあった人も数多くいる」。当時の街、そこに生きる人々の経験を知る時、その事実は深い意味を持ち始めるのだ。

 

※掲載当時の文章をちょっと変えています。

ちなみに、この話はさらに行政資料を調べて論文にしています。

「書きかわる慰安の動線. ―特需佐世保における「輪タク」と行政の相互作用を事例に―」『年報社会学論集』 (28), 2015(以下が電子版のリンクです)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2015/28/2015_124/_pdf